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Essay: Sakamoto 初期ビデオアートのメディアに対する批評性 (阪本裕文)

Scholar Hirofumi Sakamoto considers the multifaceted use of video in the Japanese moving image and art practices.

essay: Hirofumi Sakamoto / 阪本裕文

初期ビデオアートのメディアに対する批評性

芸術とテクノロジーの関係

芸術とテクノロジーの関係の歴史は、キネティック・アートやライト・アートをはじめとした20世紀初頭の動きにまで遡ることができるが、より直接的な動向としては50年代末から60年代にかけて世界各地で相次いで設立された、テクノロジーを芸術に積極的に取り入れたグループの活動が挙げられる。このアート&テクノロジーの動向の中ではベル研究所のエンジニアであったビリー・クルーヴァーを中心として1966年に設立され、ロバート・ラウシェンバーグをはじめ多くの芸術家が関係したニューヨークのE.A.T.(Experiments in Art and Technology)の存在が代表的である。国内においても同様の動きがなかったのかと振り返るならば、瀧口修造が後見人的立場につくことで1951年に結成された北代省三、福島秀子、武満徹、湯浅譲二、秋山邦晴、山口勝弘らをメンバーとする実験工房を、インターメディア的性格によって、テクノロジーを芸術に関係付けた、日本における先駆として位置付けることができる。

日本における芸術とテクノロジーの関係は、実験工房の活動を起点として、環境芸術やインターメディアといった潮流の中で、現代音楽や実験映画とも関連しながら進行してきた。それは1969年の「国際サイテック・アート展〈ELECTROMAGICA'69〉」(ソニービルにおいて開催。ニコラ・シェフェール、CTG/コンピューター・テクニック・グループの作品と共に、坂本正治『時分割テレビ』1969、山口勝弘の『イメージモデュレーター』1969などが出品された)、69年の第四回「クロストーク・インターメディア」(アメリカ文化センターの主催により67年より継続して開催されてきたフェスティバル。国立代々木体育館にて、内外の現代音楽家の作品やスタン・ヴァンダービークの作品と共に、松本俊夫のインターメディア作品『イコンのためのプロジェクション』1969などが上演された)と71年の第五回「クロス・トーク」(朝日新聞社ホールにて開催。飯村隆彦によるビデオパフォーマンス『Outside & Inside』1971などが上演された)などがある。そしてこのような芸術家の試みは、70年の「日本万国博覧会」(松本俊夫の担当したせんい館の『スペース・プロジェクション・アコ』1970、山口勝弘が担当した三井グループ館の『スペース・レヴュー』1970と小林はくどうの『はくどうマシン』の展示、そしてE.A.T.と中谷芙二子によるペプシ館の演出など)に集約されることで、この時代における一つの頂点に到達する。このようなテクノロジーの要素を含んだ環境芸術やインターメディアから、「万博芸術」に至る流れは、日本の美術批評においては、テクノロジーの応用によって芸術の進歩を達成させるという稚拙な考え方(あるいはユートピア思想や進歩史観としてのモダニズム的思考)を有しているとの批判を往々にして受けてきた(山口勝弘はこれをテクノロジー・アレルギーと呼んで逆批判する[1]

特に美術からビデオアートに向かい、それに専念した作家(山口勝弘や山本圭吾など)はこの批判に向き合わされることになるが、逆に実験映画からビデオアートに向かった作家(松本俊夫や飯村隆彦など)は、このような批判を意に介する必要がなかった。何故なら、彼らのバックグラウンドにあるフィルム=映画とは、そもそも撮影、現像、映写にまつわるテクノロジーによってこそ成り立つメディアであるのだから。確かに観念としての芸術を論じる立場からしてみれば、テクノロジーやメディアの問題などは外的なものであり、テクニカルな側面への執着は芸術への皮相的な取り組みとしてしか映らないだろう。しかし各メディアにおける芸術の形態/表現の形式の設定は、過去の歴史がそうであったように表現に際しての不可避の前提である。ことの本質はテクノロジーの新旧や優劣にあるのではない。当然のことながら、新しいテクノロジーの使用が無条件に作品の価値を保証することなどは有り得ない。ましてや芸術には科学技術で言うような意味での進歩は、本質的に存在しない。しかし、使用されるテクノロジーやメディアの特性が芸術にどのような意味を持ちうるのかという点については、もっと慎重に論じられる必要があったのではないだろうか。

メディアの特性は各領域における芸術の形態/表現の形式を決定付ける要因である。ゆえに新しいメディアの導入は、芸術の「進歩」を生むのではなく、芸術の「別のあり方」の可能性を準備する。テクノロジーの発達が芸術に寄与することがあり得るとすれば、それはこの可能性を拡大させるということに他ならない。それを踏まえた上で芸術家が達成しなければならないのは、メディアの特性に基づいて、そのメディアにおける固有の芸術の形態/表現の形式を模索するという作業である。この作業は常にメディアに対する批評的な意味合いを持ち合わせている。テクノロジーが変化し続ける社会的要素の一つであり、芸術の意味や機能が社会を構成する関係性のなかで決定されるのであれば、芸術家がテクノロジーやメディアの特性に向き合うこととは、社会を構成する関係性のなかでの芸術の意味や機能を組み替えることに等しいことなのである。

実験映画についても簡単に触れておきたい。実験映画、特にアメリカン・アンダーグラウンド映画が本格的に日本に紹介されるのは60年代半ばからであるが、それ以前より映像における実験は、記録映画の領域(松本俊夫など)、学生映画の領域(日大映研のグループ)、アマチュア映画の領域(飯村隆彦などフィルムアンデパンダンのメンバーら)などにおいて既に試みられていた。先駆的な試みとしては松本俊夫が実験工房のメンバーの協力のもと制作した前衛的PR映画『銀輪』(1955)と、グラフィック集団による『キネカリグラフ』(1955)がまず挙げられる。そして草月アートセンターにおける活発な上映活動や、67年の「草月実験映画祭」、68年の「フィルム・アート・フェスティバル1968」の開催もあり、60年代後半には当時の流行と言えるアングラブームと相まって実験映画は盛り上がりを見せる(ただしこのアングラブームは、実験映画を風俗のレベルにてとらえる側面があった)。68年には共同配給組織であるジャパン・フィルムメーカーズ・コーポが設立されるが、翌年には分裂する。また、「フィルム・アート・フェスティバル1969」における造反事件も起こり、アングラブームの凋落とともに、一時的に実験映画を取り巻く環境は停滞してしまう。

そして、その後は71年にかわなかのぶひろらによって発足されたアンダーグラウンドセンターが日本の実験映画を支えてゆくことになる。そのような実験映画の展開のなかで、68年頃からエクスパンデッドシネマ(拡張映画)という概念が注目され、既存の映画の上映方式から大きく逸脱した作品が制作されるようになる。68年に草月会館で開催されたシンポジウム「EXPOSE1968 なにかいってくれ、いまさがす」では、松本俊夫による三面マルチ上映作品である『つぶれかかった右目のために』(1968)が上映されている[2]。 

このエクスパンデッドシネマの上映空間の拡張は、芸術を空間へ向かわせる点において同時代の環境芸術やインターメディアと同じ方向性を持っている。これらの動向は重なり合いながら展開し、その関係のなかでビデオアートも模索されてゆくことになる。また初期のビデオ作家らは、72年に結成されるビデオひろばのメンバーの出自を見れば分かるように、その多くがビデオアーティストである以前に映像作家や美術家であった。当時は芸術のカテゴリーも曖昧化し、作家の活動領域も越境的になる傾向にあった[3]。この状況において実験映画とビデオアートの間にある距離は決して遠くはなく、映像作家らの意識のなかで、ビデオとフィルムの共通性と違いは強く意識されていた。

ビデオの登場

1965年にはソニーによるビデオレコーダーの市販化によって、芸術家が個人レベルでビデオを手にすることが可能となった[4]。最も早い時期の芸術家によるビデオへの取り組みとしては、松本俊夫によるモニター上の画像を磁石で直接歪める『マグネチック・スクランブル』(1968)と、先述のシンポジウム「EXPOSE1968 なにかいってくれ、いまさがす」のなかで行われた山口勝弘と東野芳明のビデオイベントが挙げられる。そして72年に「ビデオコミュニケーション DO IT YOURSELF Kit」が開催され、ビデオひろばが結成される(後述する)。また同じ年には「開かれた網膜・わしづかみの映像=ビデオ・ウィーク」(アメリカンセンター)も開催されている。その後も74年に「トーキョー・ニューヨーク・ビデオエキスプレス」(天井桟敷館)、77年に「日独ビデオ・アート展」(福井県立美術館)が開催され、本格的な国際展として78年の「国際ビデオ・アート展TOKYO’78」(朝日講堂、草月会館)の開催に至る。こうした動きのなかで初期のビデオはメディア固有の特性と結びつきながら、芸術の形態/表現の形式を模索してゆく[5]

フィルムとビデオは同じ映像メディアではあるが、フィルムは機械的な技術から成り、ビデオは電子的な技術から成る。その特性の違いは根本的に異なる制作の過程と経験を作り手に提供する。最もプリミティヴなビデオに固有の特性とは、電子的に映像を操作できるということ、撮影したものをすぐに映し出せる即時性を持っていること、根本的にはこの二つに突き詰められよう。

ビデオとは、被写体の像を光学的技術によって記録するフィルムとは異なり、電子的な信号に変換することによって像を記録するメディアであり、その信号を操作することで、モニター上に出力される映像の色と形を操作することを可能とする。この電子的な画像処理による映像表現の展開は、パイクとエンジニアである阿部修也によって開発されたパイク=アベ・ビデオシンセサイザーや、スキャニメイトのようなアナログの電子画像処理装置の使用によって試みられてきた。

ビデオの電子画像処理装置によるイメージの加工・変調の表現は、フィルムのオプチカル処理によるイメージの加工・変調の表現とは全く異なる制作の過程から生まれるもので、両者は全く別種の質感を持っている。また、フィルムにおいてイメージにオプチカル処理によって加工・変調を施そうにも、実際に結果を目にすることができるまでには一定のタイムラグ(現像所からあがってくるまでの時間)を要する。これに対してビデオでは、リアルタイムなモニタリングによって結果を確認しながら、即興的に、自由自在に電子的な映像を操作することが可能であった。

日本のビデオアートにおける電子的な映像表現の系譜は、エレクトロ・フリーラン効果を利用した安藤紘平の『Oh ! My Mother』(1969)を起点として、電子画像処理を制作に導入することで進められてきた(安藤はテクニカル・ディレクターという職業柄、映像に関する技術的知識を有していた)。松本俊夫は、本来は医学・工学用の電子的測定装置であったエレクトロ・カラー・プロセスを使用して『メタスタシス 新陳代謝』(1971)、『エクスパション 拡張』(1972)を制作し、またスキャニメイトを使用して『モナ・リザ』(1973)などを制作した。

そして80年代以降、時代とともに発展してゆくテクノロジーによって、技術の普及と表現の洗練が進み、より高度で緻密な映像の加工・変調が可能とされるようになる。それと比較すれば、市販化されて間もない時期のビデオにおける、電子的な画像処理は、技術的にまだまだ稚拙なものであったかもしれない。しかしそれは生々しいアナログ特有の過剰さを含んでおり、技術的な限界それ自体が、その時代の技術レベルに由来する表現の個性となっていた[6]

上記に加えて、電子的な映像がフィルムを取り込むこと、または電子的な映像がフィルムに取り込まれることにより、もうひとつ別の思考領域がこの時点において既に開始されていた。それはフィルムとビデオを包括的に「映像」という一義的なコンテクストにおいて取り扱うという思考のことである。この考え方は、一般的にフィルムとビデオが、まだ別々のメディアとして受け止められていた時代における越境である。松本俊夫は『モナ・リザ』において、フィルムの質感・各種フィルム処理の効果、ビデオの質感・電子的な画像処理の効果といった諸々の手段を、ひとつのフレームの中で掛け合わせている。その結果、各メディアの領域間の線引きは極めて困難になる(厳密にはビデオアートとも実験映画とも区別し難い)。松本の作品には、このように制作に使用したメディアの種類(フィルムまたはビデオであるのか)が意図的に曖昧にされている場合があるが、これは使用メディアの領域区分の撹拌(そして観る者の固定化した意識の撹拌)を狙ったものである。このような逸脱の姿勢は松本の仕事において、常に強く意識されている。松本はバックグラウンドとしてフィルムを踏まえていたからこそ、早い時期に「映像」という一義的なコンテクストに到達することができたのだと言える。

また山口勝弘も『大井町附近』(1977)、『渦の中の女』(1977)等をはじめとして、電子的な画像処理を作品の中で多用している[7]。山口の“イマジナリウム”のコンセプトや、中島興、宮井陸郎の作品も、このメディアの越境的な混合という問題を含んでいる。複数の映像メディアの使用によって、イメージの増幅と変容を誘発するこの方法論は、フィルムに対してのビデオという別項が用意されることで初めて準備されたものであり、それはまだビデオアートという枠組みが未形成な時期ならではの、初期衝動的なダイナミズムを備えていた。しかし今日のデジタル技術によって包括され、平坦化された映像からは、そのような初期衝動的なダイナミズムを感じ取ることはできない。

ビデオのもうひとつの特性は、撮影したものをすぐに映し出せる即時性にある。この特性はフレームの内部に現在から切り離されたイメージを見るのではなく、撮影から再生までを含めて一つのプロセスとしてみなし、そこに映し出された映像と、映像が成立する全ての過程を包括的に取り扱うことを可能とする。これはフレーム内部の映像を、我々の存在する時間・場所の直接の延長として認識するということである。この即時性を活用したビデオ・フィードバックの手法は、具体的には撮影されているものを即時的にモニターに映し、その撮影された結果を撮影の場において反映させ、ビデオを取り巻く環境自体をシステムの一部とすることによって実行される。そこでビデオは「見る」と「見られる」の関係を流動化させる。

イベントやインスタレーションのなかでビデオの即時性が展開され、ビデオ・フィードバックの手法が、その内部に組み込まれた作品としては、向かい合って食事をする二人の作家がお互いの行為の様子を交互にビデオカメラで撮り合い、その構図全体をもう一つのビデオカメラによって撮影し、その場でモニターにリアルタイムで映像を映した山口勝弘のビデオ・イベント『EAT』(1971)と、ベラスケスの絵画に潜む「見る」と「見られる」、交差する視線の関係のなかに観客を取り込んだビデオ・インスタレーション作品である『ラス・メニーナス』(1974〜75)がまず挙げられる。他にもパフォーマーや観客の挙動をビデオ・フィードバックやディレイ等を使用して遅延させる、かわなかのぶひろの『プレイ・バック』シリーズ(1971〜)や、最初の身振りを伝言ゲームのように映像によって伝達させて、その変容のプロセスをユーモラスに見せる小林はくどうの『ラプス・コミュニケーション』(1972〜)なども、その代表例として挙げられる。また、山本圭吾も『Video Game』シリーズ(1973〜)において、視点のズレによる物の見え方の違いを、観客参加のゲーム形式のなかで浮かび上がらせる試みを行っている。

また「見る」と「見られる」の関係を閉回路としてのメディア内部において展開させ、さらにプロセスの表出を目的とせず、一切の外部的なコンテクストを排除した場合、それはビデオの構造をビデオによって自己言及的に現前させる試みとして機能する。ビデオの即時性を、このようなメディア構造の前景化を目的として、コンセプチュアルに展開した作品としては、飯村隆彦の『Camera, Monitor, Frame』(1976)、『Observer/Observed』(1975)、『Observer/Observed/Observer』(1976)が挙げられる。飯村はこれらの作品によって、ビデオのメディア構造を、記号論の問題を含みながら考察している。また飯村は『This Is A Camera Which Shoots This』(1980)といったビデオ・インスタレーションにおいてもこの試みを発展させている。メディアの構造への自己言及的な方法論と、フィルムの領域における構造映画との間には、メディアの構造を各部位において分解し、前景化を試みている点で、共通性を認めることができる。飯村はそのようなフィルムの領域での仕事を踏まえ、構造映画に見られたようなコンセプチュアルなアプローチによってビデオの特性とメディアの構造に着目しており、「ビデオの記号学」と自らが呼ぶ試みを追求する。コミュニケーション論とプロセス主義がビデオアートの代名詞であったこの時期に、映像作家としてビデオの構造をコンセプチュアルに追求した存在であると言える。また出光真子のモニター内にモニターを配置するという特徴的な表現スタイルも、このメタ的な方法論をドラマの形式によって展開したものと解釈できるだろう。

 

美術家による映像

次にもう一つの重要な動向である、関西の「現代の造形〈映像表現〉」周辺の美術家や、美共闘およびその世代の美術家の映像について言及したい。彼らはビデオに限らず、写真(スライドを含む)やフィルムといった映像メディア全般を使用していたので、その活動はビデオのみに限定されるものではなかったが、ここにもまたプロセスに関わる問題が含まれていた。1964年より松澤宥がオブジェを消して言葉による芸術を開始したこと、あるいは1965年にグループ位(河口龍夫ら)が長良川の河原で巨大な穴を掘って埋めるというイベントを行ったことに代表されるような日本概念派と呼ばれる動き、もう一方で関根伸夫を起点に、もの派と呼ばれた作家らの動きが広がることで、1970年頃には日本の美術は概念と物質に分離され、徹底した還元主義に至っていた。そのために、1971年に結成された美共闘REVOLUTION委員会(刀根康尚、彦坂尚嘉、堀浩哉)は、芸術が解体に至った状況を受けて、制作することの前提から芸術を問い直さねばならなかった。

このように美術が媒体に留まらず、概念にまで至ったことから、多くの美術家らは芸術が芸術として成立するに至るまでの、関係性の成り立ちを追求するために映像を用いるようになった(実験映画からの影響はなかった訳ではないが、直接的なものとは言えない)。それは制作においての、あるいは見ることにおいての「構造・存在・関係」[8]の再検討を目的とする。これは当時の美術の要請にとって、映像が極めて有効なものであったということである。

関西の美術家による映像制作の動きは、松本正司らによって展覧会「現代の造形〈映像表現〉」が継続して開催されることで、ひとつのまとまった動きを見せていた。ここに河口龍夫、村岡三郎、植松奎二、野村仁、郭徳俊、今井祝雄、柏原えつとむ、植村義夫、山本圭吾らが参加し、美術家による映像表現が試みられることになる。これらの作品の持つ基本的な傾向(映像作家とのスタンスの違い)については次の中原祐介の記述によく言い表されている。

「“映像”に関心をもつ美術家の多くが、対象の固定したかたちではなくその一時的な状態、あるいは刻々に変化する現象に注目しているのは特徴的である。対象の変化は、それを見るものの視点の変動によってひきおこされる。しかし、そうだから、それをフィルムに補足するというのではない。変化する対象をフィルムに撮しとるということなら、映画の製作と本質的に変わらない。美術家たちが関心を寄せるのは、ものと人間の眼の間の固定し難い関係に対してである。いいかえれば、われわれがあるものと視覚的に結ばれる過程そのものへの関心ともいえる。」(中原祐介「反映像表現への志向−〈映像表現’72〉に寄せて−」[9]

そこでのビデオの使用法は即時性を活用することによって、見ることにおいての「構造・存在・関係」を問い直すこと、あるいはカメラと長時間向き合って、自らの行為を切れ目なく撮影することなどであった。このような関西の美術家の作品の中でも村岡三郎、河口龍夫、植松奎二の三人による『映像の映像 見ること』(1973)は、NHK神戸放送「兵庫の時間」の枠内で放送され、見るということの制度を広域テレビ放送の枠内で問いかけた代表的な作品である。この作品からは映像にまつわる「構造・存在・関係」の問い直しと、広域テレビ放送自体をメタ化したマスメディア批評という、複数のコンセプトを読み取ることができる。その一方で関東の美共闘の世代の作家らも、写真・フィルム・ビデオを多く使用していた。特にビデオを用いていた作家としては、ビデオの即時性を活用して認識と行為の反復を繰り返していた堀浩哉、ビデオひろばにも関わった和田守弘や、倉重光則、川村悦郎、高見沢文雄などが挙げられる。

「現代の造形〈映像表現〉」周辺の美術家や、関東の美共闘の世代の美術家らにも、プロセスそのものを作品のなかで中心化する傾向は見られたが、それは芸術を成り立たせている様々な要素を、映像によってひとつひとつ問い直す実践としてのプロセスであって、最終的には芸術への再到達に向かう為のものであった。これはビデオひろばに活動に見られたような、新しいコミュニケーションの形態を探ろうとする姿勢とも、あるいは環境芸術やインターメディア的発想とも立脚点が異なっていた。美術家らは美術の問題として映像を使用していたのである。美術家による映像は、70年代末には終息に向かうが、これは美術における問題から始まった映像による仕事がほぼ完了したことを意味し、それにより多くの美術家は再び造形のみと向き合うことになる。これは以前にはなかった映像における経験を備えた上での回帰であると言える。美術家の映像は、まさに美術家の立場においてしか成し得ない、見るということの前提に対する問いを含むものである。美術家の映像の使用の動機は、必ずしも映像メディアそのものへの関心から出発したものではなく、映像を美術の問題の側へと引き込んだものであったが、その映像と美術の未分化な領域での仕事は、映像における「見ること」の意味を考える上で、極めて多くの示唆を含むものである。

ビデオひろばと新しいコミュニケーションの形態

60年代末にアメリカ・カナダを中心として盛んになった、オルタナティヴ・メディアとしてのビデオを追求した幾つものビデオグループによるゲリラ・テレビ運動は、当時の社会的な状況の中で「芸術を芸術対象物としての作品として扱うのではなく、一種の情報メディアとして認識してゆく立場」(山口勝弘「ロボット・アヴァンギャルド」より引用[10])をとっていた。彼らは寡占的な広域テレビ放送の情報支配に対抗するパーソナル・メディアとして、ビデオを実践的に活用し、CATV(ケーブルテレビ)での放映や、ビデオテープのエクスチェンジによる、オルタナティヴ・ネットワークを築くことで、連帯的な対抗文化の形成を試みた。それに対して日本におけるビデオによるコミュニケーションの展開は、社会的な状況の違いもあり、海外のゲリラ・テレビ運動にみられたような、マスメディアに対する直接的な反抗の性格は、比較的希薄であったように思える。海外のゲリラ・テレビ運動は広域テレビ放送に反抗することを、極めて強く、政治的に意識していた。それよりも日本の場合は、もっと日常に近い共同体的な枠組みの中で、ゆるやかにビデオによってもたらされるコミュニケーションの可能性を、実践的に探ってゆくことが試みられていた。

1972年、カナダより来日したマイケル・ゴールドバーグの呼びかけで「ビデオコミュニケーション DO IT YOURSELF Kit」がソニービルにて開催され、ビデオひろば(この時の参加者は山口勝弘、中谷芙二子、かわなかのぶひろ、小林はくどう、宮井陸郎、松本俊夫、萩原朔美、和田守弘など)が結成される。グループ結成の理由には企業からの機材の貸与が受けやすくなる、機材の共有が出来るなどの現実的理由もあった。そしてゴールドバーグによって持ち込まれた、ビデオによる社会的なコミュニケーションの考え方は、ビデオひろば周辺の作家たちの活動によって展開されてゆくことになる。それらは作家主義的な芸術としては片付けられない、特異な社会的方向性を持つものであった。ビデオひろばによる代表的な社会的プロジェクトとしては、経済企画庁委託の横浜市野毛地区の再開発についての『ビデオによる新・住民参加の手法』プロジェクト(1973)、東京電力新潟支社のビデオ・コミュニティ・センターのプロジェクト(1973)、老人に対するインタビューを収集する、中谷芙二子を中心とした『文化のDNA 老人の知恵』(1973)、チッソ本社前にて抗議活動を行う若者達を撮影し、その映像をその場で再生して見せることで、また新たな連帯が生み出される中谷の『水俣病を告発する会』(1970)などを挙げることができる。これらのビデオひろばの社会的プロジェクトの多くは、最終的に一つの作品として完結することを積極的には意図しておらず、そのまま社会的なコミュニケーションの過程で霧散してゆくような性格のものであった。それはビデオの即時性を社会の枠組みの中で双方向的に展開させることによって、「情報の送り手」と「情報の受け手」の双方向的な関係(これは「見る」と「見られる」の関係と同質である)の流動化を引き起こしており、個人の視点からのレスポンスが相互的に促されるような環境の構築が重視されていた[11]

山口勝弘、中谷芙二子、かわなかのぶひろ、小林はくどうといったビデオひろばに中心的に関わった作家らには、ビデオひろばでの活動を作品化するような意識が極めて希薄であったが[12]、それはまるでビデオの社会的コミュニケーションの可能性を検証することを、芸術であることよりも優先させていたかのように映る。彼らのビデオによる社会的プロジェクトやイベントの多くは、芸術としてのパフォーマンスとは、そもそも立脚点が異なっているように感じる。芸術としてのパフォーマンスの場合、それはアイデアから発して、行為や身振りによる作品コンセプトの具体的な現実化と、芸術への定着へ至る。しかしビデオひろばのプロセスの取り扱い方は、プロセスをどこへも向かわせてはおらず、制度的な芸術としての定着を回避し続けることで、結果的に芸術からの乖離に至っている。山口はビデオについて次のように述べている。

「ビデオ・アートの特性の一つは、メッセージを受け取る側がいつも受け身であるという芸術のコミュニケーションの形態が、壊れつつあるという点にある。(中略)ビデオ・アートはすでに、美術の範疇における一形式ではなく、むしろ現代の文化が中央集権的性格を弱め、周縁的文化の活性化が始まっている状況に応じうる、新しい発表形式と流通の可能性をはらんだものとなりつつあるのである。」(山口勝弘「ビデオ・アートの社会性」より引用[13])

彼らにとってのビデオとは、未完のプロセスそのものを純粋に抽出することができる、大きな可能性を持ったメディアであった。ビデオひろばの目的とは、このビデオの即時的な特性を芸術のレベルにとどめることなく、文化や社会のレベルにまでビデオの可能性を拡大させることにあったのではないだろうか。彼らはビデオの登場によって初めて可能とされるであろう新しいコミュニケーションの形態を予見して、既存の芸術や文化のあり方から離れ、プロセスが終わることなく活発であり続ける、新しい形態の芸術・文化・社会のモデルケースを実践的に模索していたのだと言える。この点から見てもマスメディア批判の傾向が強かった海外のゲリラ・テレビ運動と、日本のゆるやかで日常的なビデオによるコミュニケーション活動の展開は若干性格の異なるものであった。1970年代半ばにはビデオひろばとしての活動は終息へ向かうが、この方向性はビデオひろばに関わった作家達のその後の活動に、確実に引き継がれてゆくことになる[14]

80年代から90年代にかけてのビデオアート

こうした初期の先駆的な試みを経て80年以降、第二世代の作家が生まれ来ることになる。81年に中谷芙二子によって開廊したビデオギャラリーSCANは多くの若手作家を輩出し、国際的な活動のサポートを行った。代表的な作家としては櫻井宏哉、島野孝義、斉藤信、寺井弘典らが挙げられる。またSCANは公募展や個展形式での上映を盛んに行いながら「JAPANビデオ・テレビ・フェスティバル」を開催するなどして、80年代を通して日本のビデオアートを支えてゆく。また小林はくどうを始めとして、「ビデオひろば」の元メンバーが関わることで79年より開催されているビクター主催の「東京ビデオフェスティバル」は、明らかにビデオひろばでの社会的プロジェクトの延長線上にありながら、より市民レベルでのビデオによる映像表現の普及に貢献していた。また85年より山本圭吾の企画により「ふくい国際ビデオ・ビエンナーレ」も開催されている。

第二世代の作家が先駆者らと異なる点は、その多くが初めからビデオアーティストとして活動を開始していることにある(初期においてビデオを手にした作家らは、ビデオアーティストである以前に映像作家や美術家であり、そこからビデオによる表現に進出した越境者であった)。そのために80年代には初期ビデオアートにあった芸術の形態/表現の形式を批評するようなダイナミックな越境性は希薄化され、ビデオアートの様式化が引き起こされることになる。また、ポストモダニズム思想を日本に紹介した浅田彰などによって、ビデオを含めたテクノロジーメディアが語られる機会も多かった[15]。ビデオを含めたテクノロジーメディアの特性を活用して現代社会を考察することは、ポストモダニズム思想を論じる際にも有効であったのである。このような現代思想との関係から、ビデオアートやメディアアートを考察する動きは、メディアアートを専門とする美術館・博物館である、Inter Communication Center (ICC)の開館に結びつくことになる。ICCの開館は97年だが、準備は90年代初めから開始されていた。これには浅田彰も関わっていた。日本ではビデオアートやメディアアートが公立美術館のサポートを受けることは決して多くなかったのだが、その代わりに企業が文化貢献として、ビデオアートやメディアアートをサポートする例が多く見られた。Inter Communication Centerは通信事業者であるNTT (Nippon Telegraph and Telephone Corporation) による文化事業であり、「東京ビデオフェスティバル」もビデオの普及を目的のひとつとしてVictorが主催した文化事業であった。また「ビデオひろば」も、Sonyのサポートを受けてスタートしたグループであった。

こうして、80年代から90年代にかけてのビデオアートは、テクノロジーの発展によりメディアアートに包括される過程を、あるいはメディアの普及にともなって、大衆消費文化に飲み込まれる過程をたどってゆく。ここで初期ビデオアートとの連続性は切断されることになる。社会状況と芸術とテクノロジーの関係は、60年代、70年代と比べて余りに変化してしまった。そして初期ビデオアートが、その時代において持ち得た意味は忘却される。85年の「つくば科学万博」におけるRADICALTV(原田大三郎、庄野晴彦)と坂本龍一による『TV WAR』(1985)、あるいは藤幡正樹、岩井俊雄、古橋悌二/ダムタイプといった新しいメディアアーティストの活動は、この切断の後においてのみ存在し得るものであったと言える。

初期ビデオアートの価値とは、多様なジャンルの作家が入り交じり、複雑な要因が絡み合う状況下において、新しいメディアの芸術の形態/表現の形式の設定を多義的に成し得ようと試みたところにある。我々は初期ビデオアートを再考することで、ビデオの芸術の形態/表現の形式が制度化する以前の状態へ、いつでも立ち戻ることができる。初期のビデオは技術的にはまだ貧しく、シンプルで基本的な機能しか持たないものであった。しかし、だからこそ初期ビデオアートは豊かな思想性を持ち、自らを成り立たせているテクノロジーとメディアに対して批評的であり得た(これはその後のビデオアートに必ずしも引き継がれたものではない)。ビデオアートがメディアアートという呼び名に回収されたかのように見える昨今、初期ビデオアートのメディアに対する鋭利な批評性は、ビデオによる映像表現の根本を問い直す上で、今なお有効である。



[1]山口勝弘「テクノロジーと環境芸術」(美術手帖1978年7月号増刊「増刊:日本の現代美術三〇年」所収,美術出版社,1978)、p208を参照のこと。

[2]この作品は同時期の松本の『イコンのためのプロジェクション』『スペース・プロジェクション・アコ』へと連なる。

[3] この動向は石崎浩一郎「光/運動/空間ー境界領域の美術」(商店建築社,1971)に詳しい。

[4] ソニーのビデオレコーダーCV-2000は1965年8月に国内発売され、同年9月にはアメリカでも発売が開始された。また同時にビデオカメラキットVCK-2000も発売された。

[5] ビデオのメディア特性とモダニズムの問題については, Jon Burris 「Did the portapak cause video art ?」(Millennium Film Journal No.29, p3-28, Millennium Film Workshop, 1996)を参照のこと。

[6]その後の電子的な映像加工の技術的な発展の結果として、中井恒夫の『人工楽園』(1983)、篠原康雄の『ピラミッド』(1983)や伊奈新祐の『SHA』(1986)などを挙げることが出来るだろう。

[7]これらは環境性を強く意識させる作品であり、モニターの映像と鏡を組み合わせることによって、絵画とガラスによる作品『ヴィトリーヌ』の延長線上にあるインタラクティブ性を導入している。ここでは観客とモニターの位置関係によって鏡に映り込んだ映像が、流動的に変化してゆくことが意図されている。それは作品と観客とのコミュニケーションの要素と、造形的な表現を一つの環境のなかで結びつけるものであった。

[8]これは植松奎二の言葉であり、美術家の問題意識を明確化する上で適切なものである。詳細は花田伸一「植松奎二の写真作品に写っていないこと」(「植松奎二展身体と眼差しへの思考 70sの写真・映像から新作まで」カタログ所収, 北九州市美術館, 2003)、p4を参照のこと。

[9]中原祐介「反映像表現への志向−〈映像表現’72〉に寄せて−」,「第5回・現代の造形〈映像表現’72〉もの、場、時間、空間−Equivalent Cinema−」カタログ所収, 1972)より引用。

[10] 山口勝弘「ロボット・アヴァンギャルド」(パルコ出版局, 1985)、P60より引用。

[11]同様にビデオ・インフォメーション・センターの様々な記録活動や、中島興のビデオアースの活動も社会的な枠組みの中でのビデオの使用として挙げることができるだろう。

[12] 個人としての作品であれば、中谷芙二子『卵の静力学』(1973)、かわなかのぶひろ『Kick the World』(1974)のようなシングルチャンネル作品もある。それでも行為を通してのプロセス主義への強い傾倒がそこには見て取れる。

[13] 山口勝弘「ビデオ・アートの社会性」(「国際ビデオアート展'78」カタログ所収, 1978)より引用。

[14]小林はくどうの関わる「東京ビデオフェスティバル」や、山口勝弘が構想した、「イメージをメディア環境の中で自由に移送する」という“イマジナリウム”のコンセプトも、ビデオひろばでの新しいコミュニケーション形態の追求の延長線上にあったと言えよう。“イマジナリウム”のコンセプトについての詳細は山口勝弘「山口勝弘360°」(六耀社, 1981)、p13-17を参照のこと。

[15] 例えば『GS・たのしい知識 vol.5「特集=電視進化論」』(UPU, 1987)でのビデオ特集など。


Hirofumi Sakamoto
Hirofumi Sakamoto is a university researcher and president of Postwar Japan Moving Image Archive (PJMIA). He holds a Doctor of Arts degree. His research focuses on experimental film, documentary and video art in post-war Japan. PJMIA has been archiving and distributing films by Toshio Matsumoto and Nobuhiro Aihara. He supervised Vital Signals exhibition and publication projects (EAI + Yokohama Museum of Art, 2009-2010) and a retrospective of Toshio Matsumoto (Kuma Museum of Art, 2012). His publications include Toshio Matsumoto Collected Writings Vol.1 1953-1965 (Shinwasha, 2016) and Kiroku-Eiga [reprint] (Fuji Shuppan, 2015-2016) for which he served as the editor, and American Avant-Garde Movie (Shinwasha, 2016) for which he served as the co-editor.


This essay was originally published in Japanese in Retrospective Exhibition of The Early Video Art (Shoki Bideo Saikō Jikkō Iinkai, 2007); and published in English in Vital Signals: Early Japanese Video Art (Electronic Arts Intermix, 2009).

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